ぼそんの東欧見聞録〜リトアニアに住んでみました〜

大学院で量子論の研究をしていましたが、訳あって1年間リトアニアで働くことになりました。4月から5月末までは英国に滞在し、その後リトアニアへ。   リトアニアも含め欧州の情報を徒然なるままに記します。

物理学における近似とメディア・藝術について

ある事象が発生する。例えば、竜巻が発生する、炭酸の泡が弾ける。その事象をモデル化し、より知覚しやすい形へとする。しかし現象を完璧に記述することが難しく、何かしらの近似を行い、理論を創るのが物理である。近似という行為により、現象の情報がなにか失われる。そして近似の仕方は様々あり、それは理論のバリエーションを拡げる。これが物理が行っていることである。近似の仕方は多様にあるため、所謂トンデモ理論と呼ばれてしまうものも存在する。近似の妥当性は数学的に正しいかだけでなく、物理的に“自然”か、“美しい”かなどと言ったことも考慮される。ここまでまとめると、物理学は自然現象を近似し、理論という形で表現する。近似の仕方により表現が変わるのだ。以下では、近似=表現ではなく、表現=f(近似)という関数のイメージで話す。

 

現象を近似し、それを表現する。これはメディアに通じている。メディアはひとつの事実に対し、各社の思惑によってそれを切り取り、近似し報道する。例えば、某国大統領のスピーチという事実に対し、或るテレビ局は、「観客がいっぱいおり熱狂的だった」と報道するが、違う局は観客の少ないところを切り取り、「支持者も少なく、ひどいスピーチだ」と酷評する。事実はひとつだが、それをどう切り取るかにより表現が変わる。この切り取り方が近似である。事実を100%正確に伝えることは出来ないが、いかに100%に近づけるかがメディアに問われるものである*1

 

切り取り方の近似を考えると、写真も近似である。対象物をどういう構図、どういう露光、どういう機械で取るのかによって表現が変わる。フレームの外側の情報や写真自体の解像度、色彩や遠近感、こういったものを落として対象物を表現される。インスタグラムにあがる写真はいい例である。食事をそれぞれが思う切り取り方で、表現している。“見栄え”を良くするために色彩を変えたり、解像度を落としたりする*2。いずれも、対象とその周りの空間の情報を100%伝えることは出来ず、いかに“自然”で“美しく”近似し、表現するかに注力する。

 

同様にして、藝術も近似と考えられる。対象物があり、それをどのような方法で近似し表現するか。例えば、人間というものを伝えるために、絵で表現したり、音楽で表現したり、はたまた演劇で表現したりする。そしてその各々に対しても、どういう近似を行うかが重要になってくる。例えば絵で言えば、写真同様のフレーム内外は当たり前として、シュールリアリズムやキュビズムと言った近似の仕方が様々ある。

 

何かを表現するということは、自然と近似が行われている。百聞は一見に如かずということはこれをうまく表現している。物理学では、表現の裏でどのような情報が落とされているかを考えることは非常に重要で、理論の妥当性を近似から議論することがよくある*3。メディアに関してもこれは重要なことではないだろうか。"騙されない"ためには、裏を考える必要がある。そして、藝術に関して言えば、物理学において近似が様々な理論を生んだように、様々な表現が生まれる。

近似を考えることが、表現の幅を拡げることに繋がる。

 

補遺 : フランス人詩人マラルメに関して言えば、彼は、どうすれば100%詠み手の思考が読み手に伝わるかを生涯探求し続けた。情報を近似なく伝えることの探求も表現の一つだと思う。IT技術が進歩し、例えばIoB(Internet of Brain)なんていう世界になれば、近似から開放されるのかもしれない。そして藝術は新しい表現を獲得するのかもしれない*4

*1:バズワードとなったposttruthも同じ考え方で、メディアが故意に情報に対し粗過ぎる近似を行い、受け手に間違った理論を展開することだと考えられる。

*2:時にはおじさんが入ると映えないという理由からおじさんを頑張ってフレームの外に出す場合もある。

*3:例えば量子論でbogoliubov近似やBorn近似が対象とした現象に対して有効かどうか。光学で言えばFraunhofer近似や近軸近似が有効かどうかなど。

*4:プラトンイデア世界に通じるかもしれない。我々は結局のところ "本物"に限りなく近づけるが、それ自体を表現できない。いや、表現してしまった時点でそれは"本物"でなくなるのかもしれない。